2013年04月23日

やらせはせん、憲法の栄光はやらせはせん。

時の政権、その中枢、多数与党、その中心にいて
国家の権力を掌握する存在。
そのような地位にある人間が、議会の両院でまさに
大多数の「数」を背景に、立法の力を手中に収めようと
している時。
そのような時、必ず口にする政策の一つが「憲法改正」
という、過去誰もが成しえなかった、そのパンドラの
箱を開けるがごとく所業なのである。

日本国憲法はその96条で改正に関して、以下のように
定めている。
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、
国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票
において、その過半数の賛成を必要とする。

条件は2つ。1から2という段階を踏む。
1.「両院の総議員」の2/3以上の賛成で国会が国民に提案する。
2.提案を受けた国民は、承認するか否かを選択する。
  (国民投票により過半数の賛成で承認とみなされる)

まず、1の時点で不可能に近い。
この規定に「衆議院の優越」は適用されない。
つまり、衆議院の可決が国会の議決ということにはならない。
国会の議決は「衆議院」「参議院」両方の「総議員」の2/3以上
の賛成を必要とする。
2/3という数だけでもものすごい。阿部のみくすで大人気な現在の
衆議院でさえ、自民党単独では2/3いっていない。
そのうえ、この議決には「総議員」の参加が必要なのである。
通常、法律の改正では「出席議員」の1/2の賛成が必要というもの
で、野党が「俺は気にくわないから欠席する」といっても
痛くもかゆくもない。出席している与党議員で採決してしまえば
いいのであるから。
しかし、総議員での採決が必要と言うことでは、もう全員説得する
必要がある。こんなことが果たして可能なのかと、そして「たった」
1/3の少数派の反対で「改正できない」この規定に民主主義の原則が
適っているのか?そう言うのである。
そしてこの96条を改正して、憲法改正しやすくしようというその現在の
権力者の勘違いぶりが見ていられない。

憲法は法律とは違う。ハッキリ言って、憲法に多数決の民主主義
原則はあてはめられない。
民主主義は多数優位原則を唯一の原則に成り立っているのではない。
多数優位原則は民主主義の方法論の一つであって、それがすべてではない
「憲法」という特殊な法典にあっては、その適用を免れるべきなのである。
その理由は、憲法典は「人間の権利、生命、自由」といった個人個人の
存在に係る自然権が明文化されている(更には下位の法律でそれらを侵害
できないようにする)という特殊な「人権の砦」という役割をはたして
いるということ、から言えるのである。
国権に関しての規定も、人間の生存権に深くかかわる。行政権の拡大、
司法の軽視、国会の形骸化。それらはすべて国民の人権に跳ね返ってくる。

憲法に手をつけてはならないという「原則」を変えてはならない。
もちろん、その緊急事態にあって、その変更をすることが唯一国民の生命
権利に有効な手立てであるという絶対的理由が発生すれば、その時こそ
国会と国民自身がその改正に対して議論し、そしてその改正を国民が
自分の意思で行うということが「自然の流れで」おこなわれるだろう。
そう、国会の提案は、国会から国民に行われるのではない、世論が国会に
行わせる、のである。
そのような緊急事態に、国会は一体となって議論することによって世論
を説得し、総議員による2/3以上の賛成という「軌跡」を起こすことが
憲法改正の唯一の方法であるべきなのである。


尚、国会の発議後の「国民による投票」は個人的には形だけの投票
であると考えている。
その理由は前述のとおりである。
posted by 空条錠太郎 at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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