2013年03月10日

3.11を思う

2011年3月11日

それは、日本国存亡の危機が訪れた日。


あの日、地震が、津波が、そして原子力発電所の事故が
この国を襲った。
天災、そして天災が引き起こした「原子力発電所事故」という
明白な「人災」

原子力発電所は、あの事故以来、稼働するかしないかでこの国を
二分している。
被災地のかたは計り知れない恐怖と不安にさいなまれている。
原子力発電は、もうたくさんだと。
国の安全政策は信用できない。
そんな気持ちでいっぱいだろう。

しかし、以前のブログでも書いたとおり、ヒステリックに
(大変失礼な言い方だが)ただ、原子力発電は停止するべきと
「今更」言うわけにはいかない。
それは、我々にも責任があるということ、それは以前にも論じた。
我々が欲した、全てではないが、しかし少なからず我々は欲したのだ
便利を、興奮を、充実を、そして「安全」までも。
それらの大部分は、文明、電気による文明で補われているのである
そして、電気の大部分は原子力発電が担っていたし、これからは
更にその役割を負担されていくはずであった。


原子力発電は本当に効率がいい。
何をもって効率を定義するかは、もちろん1面だけでは論じれないが
費用対効果に関しては、本当に効率がいい。
火力、風力、自然発電。そのどれもが大量の燃料を必要としたり
気まぐれな自然の力をあてにしたりと、非効率、非安定的。
だから、その側面では、今の段階でこれをやめるわけにはいかない。
それは、もう論じるまでもない。
一部の方は、それでもやめるというだろう。
そこまでして、原子力発電に頼ってまで、文明を存続させる必要が
あるのかと、そういうかもしれない。
しかし、短絡的に「ただ止める」といって、今の文明を放棄するのは
あまりにも無責任だ。我々には、文明を欲してしまったという責任が
ある、投げ出せれない、逃げるわけにはいかない。

だが、原子力発電は危険である。
もっともリスキーな方法である。最も効率的とは裏を返せばもっとも
リスキーであるという。
そして、核燃料の処分を考えれば、地球環境にも火力発電のCo2排出
と同じくらい、それに対する影響も大きい。
「永遠に地球上でおこなうわけにはいかない方法」であることは確かだ。
さらに短期的に見れば、本当に安全が確認されたと言えるのか疑問だ
設備の安全性についてもそうだが「運用」「非常時の対応」に関しては
本当に政策が講じられたのだろうか?
緊急時に原子力発電所をサポートする体制。物資の輸送、電源の供給。
想定されない状況を想像力が働く限り絞り出して、ありとあらゆる状況
を想定した、マニュアル作り。
そして一番大事なことは、設備は壊れる、想定も覆る、人は疲弊する。

このような状況は必ず起こるという「危機意識」それが最後の砦なのである。

この事故が起きた時、政府の高官は「国家の存亡」「天皇家の存続」
「首都機能の移転」それらについて最悪の事態を想定して考えざるを
得なかったと証言していた。これは衝撃である。
このような危機が、過去にもあった。しかもそれは皮肉にも今回の事故と
同じく「原子力」によってもたらされていた。
「原子爆弾」その爆弾は2発、有史以来日本にのみ投下されている。

その危機を先人の血と汗と、知恵で乗り切った後、そこに一つの誓いが
残されている。その誓いを我々は、裏切ってしまったのである。
その根本はおごりと、絶え間ない欲求によるものであることを思うと
やるせない気持ちと無力感に苛まれるのである。

「安らかに眠って下さい。二度と同じ過ちを繰り返しませんから」
posted by 空条錠太郎 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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